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「スペイン風邪」流行時の地域は 100年前の文書、日記から探る - 山陽新聞

倉敷市歴史資料整備室に保管されている大森一治の日記(手前)など

倉敷市歴史資料整備室に保管されている大森一治の日記(手前)など

大森一治

大森一治

大森が近所で見たまじないのような言葉。日記に書かれている

大森が近所で見たまじないのような言葉。日記に書かれている

 1918年に発生しパンデミック(世界的大流行)を起こした「スペイン風邪」。岡山県でも50万人以上が感染し、7千人超が亡くなったとされる。当時の行政文書や人々の日記をひもとくと、学校や企業の休業、治癒を願う民間信仰が行われたことが分かる。新型コロナウイルスが猛威を振るう今、およそ100年前の県民が感染症とどう向き合い、乗り越えたか探りたい。

■学校、新聞社も閉鎖

 〈之(これ)は最近全国にありて大流行せるインフルエンザ也(なり)〉〈呼吸器時として消化器を侵し発熱四十度に及ぶ〉

 現在の倉敷市東町で米穀商を営んでいた大森一治(いちじ)(1877~1936年)は18(大正7)年10月28日、子どもの発症を受けてスペイン風邪についてこう記した。大森は50冊以上の日記を残し、近代倉敷を知る上で貴重な資料となっている。

 日記によると、感染拡大で地域の学校や新聞社などが閉鎖、休業に追い込まれた。大森の子どもに続いて妻、父も感染し、〈惨憺(さんたん)たり〉〈感冒でよう起きません〉と記述。経過を追うと、快方に向かうまで1カ月近くかかったことが伺える。

 近所の門には〈風ひくな 風にひかれな 風の神 不動のつるぎ〉と、まじないのような言葉が掲げられていた。治療法が確立されていない時代、神頼みをせざるを得なかった状況が読み取れる。

■若年層で被害

 倉敷市の歴史資料整備室には、大森の日記とともに、当時の学校でウイルスがまん延した実態を伝える行政文書が残されている。

 倉敷町(現倉敷市)の女子尋常高等小学校長が18(大正7)年11月、町長に提出した報告書。在籍児童760人のうち、スペイン風邪で欠席したのは10月28日に174人、29日に228人と増えていき、11月1日には全体の44・5%に当たる338人に達していた。

 大森の子どもが発症する3日前(10月25日)の日記には、子どもが通う小学校で運動会が開かれ、多数の見物人がいたと書かれている。「クラスター(感染者集団)が発生したのでは」と同室職員の大島千鶴さん。

 スペイン風邪は若年層で被害が大きかった。当時の内務省が22(大正11)年に刊行した「流行性感冒」によると、19~20年に全国で亡くなった人を年齢別で見た場合、20歳以下が4割超に上った。

 危機感が強かったためか、倉敷町は18年11月2~8日、町内の尋常高等小学校と幼稚園を休業。町長から都窪郡長に提出された行政文書が記している。

■予防心得

 せきをする人に近づいてはいけない。人の集まる場所には立ち寄らず、やむを得ぬ場合はマスク着用を―。

 流行性感冒に記された内務省の「予防心得」。全国に呼び掛けられたその内容は、新型コロナへの対処方法と重なるところが多い。

 岡山県では、講話会開催やポスター掲示で心得の周知が図られた。小学校で児童が作ったマスクを配布することもあったという。

 「人類はこれまで、数々の疫病と闘ってきた」と市歴史資料整備室の山本太郎室長。「過去の記録を見ると、くじけずに打ち勝ってきたことが分かる」と強調する。

 スペイン風邪 第一次世界大戦中に世界的に流行した当時の新型ウイルスによるインフルエンザ。国立感染症研究所のウェブサイトによると、一説では世界人口の3分の1が感染し、致死率は2・5%以上、死者数は4千万から1億人に上った。流行の波が3回起こり、日本では約2300万人が感染し、約38万人または約45万人が亡くなったとの説がある。

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May 15, 2020 at 08:36AM
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