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近藤勇の手紙 県立文書館に「写し」 沖田総司の義兄・林太郎との別離など記す:東京新聞 TOKYO Web - 東京新聞


新選組の局長となる近藤勇が書いたとみられる手紙を写した史料。右のページの4行目に日付と近藤の名前、左のページの5〜8行目に沖田林太郎についての記載がある=群馬県立文書館

新選組の局長となる近藤勇が書いたとみられる手紙を写した史料。右のページの4行目に日付と近藤の名前、左のページの5〜8行目に沖田林太郎についての記載がある=群馬県立文書館

 幕末に活動した新選組の局長となる近藤勇が書いた手紙を写したとみられる史料が、前橋市の県立文書館に残され、沖田総司の義兄として知られる林太郎が、妻子らへの思いから新選組に加わらずに江戸へ帰還したとうかがわせる記載があることが、分かった。歴史研究家あさくらゆうさんが内容を確認した。

 沖田林太郎は留守の間に妻子や一族まで世話になり、京都に残るのは恐縮しているので、早々に引き払います。取り計らいを希望します−。

 手紙は、現在の伊勢崎市で旗本の家臣だった萩原信之家文書のうち「梧桐叢書(あおぎりそうしょ)」と題した冊子に収められている。日付は、新選組の前身となる壬生浪士隊が誕生した時期と重なる一八六三(文久三)年三月十三日で、林太郎について触れた部分は四行。「妻子共各々様世話ニ相成候」「沖田氏一族等迄皆々様之世話ニ相成候」という状況の中で京都に残ることを甚だ恐縮しているとし、「早々引払候」とつづっている。

 宛先は、近藤が養父から跡を継いだ江戸の剣術道場、試衛館を預かる幕臣の寺尾安次郎とみられる。

 新選組結成前後の役割表を記した手紙もあり、ゆかりの人が所有したものをまとめて写した可能性がある。

 林太郎は、総司の姉と結婚して沖田家を継ぎ、総司と同じく試衛館で修行。攘夷(じょうい)派などによって治安が悪化していた京都へ十四代将軍徳川家茂が赴く際、警護のために幕府が募った浪士組に、近藤や総司らと共に志願した。その後、浪士組の運営方針が変わって江戸へ戻ることが決まると、将軍警護の継続を訴えた近藤や総司らは京都に残留し、壬生浪士隊を経て新選組を結成した。

 たもとを分かった林太郎らは江戸で新徴組として再編され、山形・庄内藩の支配下で、江戸市中の警護や海防を担った。組頭も務めた林太郎は、新選組と同様に戊辰戦争を戦ったが新政府軍に敗れ、庄内へ移住。明治に入った後に東京へ移り、生涯を終えた。肺結核を患ったとされる総司は戊辰戦争のさなかに江戸で死亡し、旧暦の五月三十日が命日という。

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