道場六三郎さん(和食料理人)
90年代に人気を博した料理バラエティー「料理の鉄人」(フジテレビ系)。和洋中の料理人が腕を競う中、道場六三郎さんは「和の鉄人」として視聴者を魅了した。90歳を越えた今も経営する「銀座ろくさん亭」のメニューを創作し続けているが、その原点となる母親の料理を聞いた。
◇ ◇ ◇
母親の命日は昭和46年1月19日。僕は両親が40歳の時の子供で、亡くなった時は79歳でした。胸の患いでした。僕は東京にいたから、病室へ見舞いに行くぐらいしかできなかったけど、姉や兄の家族に囲まれ、母の晩年は幸せだったでしょう。
亡くなって50年経ちますね。今も毎朝仏壇にお供えをして手を合わせています。今もまぶたに浮かぶ母親の姿があります。僕が父親に怒られ、せっかんされていると、母親が床に手をついて「勘弁してやって。もうしないって言ってるから」と、僕に代わって父親に懇願してくれた。昔の父親は厳しかったですからね。
僕はだんくら坊(いたずらっ子)だったんです(笑)。生まれ育ったのは石川県の山中温泉という温泉街です。芸者の置き屋がたくさんありました。芸者さんが着物をはだけて、おしろいをつけるのをこっそりのぞいたり、歌っている卑猥な歌を覚えると、得意がって道で大きな声で歌ったりしていました。すると、母親が駆けてきて「ろくちゃん、お願いだから、やめてちょうだい」と諭されました。
実家は老舗の「道場漆器店」。父親は漆職人で母はその手伝いをしていました。家の2階が仕事場だったから、朝食の準備を終えると、すぐに2階に上がって全部拭き掃除をして。朝は一番に起き、夜は最後に寝て……働きものでした。昔の女の人はすごかったね。
姉が3人、その下に男が3人続いた6人きょうだいの三男。だから「六三郎」と名付けられ、みんなにかわいがってもらいました。毎朝、母親が台所で包丁でキュウリなどをコンコンと切る音で目覚めてね。食卓にいつもあるのは味噌汁。味噌も自家製です。大豆を蒸して、きねでついて、塩とこうじで寝かして。石川の味噌は少し緩いんです。
お米は七分づき、八分づきで、ほとんどは麦。それをおかゆにしたり。おかずは大根と油揚げの煮物、千切り大根の貝焼きや大豆と身欠きニシンの煮物……。
干し大根の煮物はしょっちゅう。大根の皮を干して保存しておいて、食べる時に水につけて戻して、刻んでジャコ(煮干し)や昆布のだしで煮るんです。大量に作って1週間くらいかけて食べていました。冷蔵庫がない時代ですから、途中で火を入れたりしてね。
1軒隣が豆腐屋でしたから、冷ややっこや湯豆腐をよく食べたし、厚揚げを砲弾の形にした砲弾揚げの煮物や、おからの煮物もよく食卓にのぼりました。豆乳は朝、牛乳代わり。終戦の時、14歳でしたから、子供時代はずっと戦時下です。食べものはあまりなかったですね。
小学校は学徒動員でろくに通えず、近くにあった山中航空という航空会社で部品を作ったりしていました。昼ご飯にアルミのお碗に入った白いご飯が出てきたことがありました。おいしいけど「あ~親にも食べさせてやりたい」と思い、涙が出た記憶があります。
いつもお腹をすかせて我慢していました。小学校3、4年の時、学校から帰って戸棚を見たら小皿に盛ったしめサバがあった。母親が父親の夜の晩酌にと思って作って置いていたんですね。それを僕が全部食べてしまったから、母親が涙をポロッと流した。僕は「子供より父親なのか……」と思ったりしてね(笑)。
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