(上)山濤記念室で常設展示されている大平山濤の作品。右の作品は三好達治の漢字仮名交じりの詩=いずれも魚津市の新川文化ホールで(下)山濤の絵画的表現が分かる作品「萬寳」。米国・ロックフェラー美術館で展示された |
現代の言葉や漢字仮名交じり文、詩などをそのまま書にする。「近代詩文書」を提唱した金子鴎亭(おうてい)(一九〇六〜二〇〇一年)に師事し、隆盛に導いた書家大平山濤(さんとう)(本名・正信)。絵画的で分かりやすいとされる作品は、多くの人を引きつける。 (松本芳孝)
「誰にでも分かる書を書こう、ということではないですか」。長男で同じく書家の大平匡昭(まさあき)(72)=本名・正昭、東京都練馬区=は近代詩文書に取り組んだ山濤の思いを代弁した。戦前まで、日本の書といえば、漢詩文を崩した草書体が圧倒的な主流。「漢字は旧字体の方が書にすると美しいが、父は新字体も書いていた。これも読みやすいからでしょう」
山濤の後年は、余白の白が効いた明るい作品が多い。「言葉を借り、文字を借り、絵のように書を表現していたように感じる。鴎亭とは違う近代詩文書を目指したのではないか」
山濤が朝日町で書道教室を開いた際の最初の弟子の一人、大菅如山(じょざん)(74)=本名・克二、同町沼保。山濤の隣に住んでいて、年齢が近い匡昭とは遊び友達だった。小二から書を始めた。「県内では有名な先生。気後れして会話をすることもできなかった。行儀作法には厳しく、緊張していた記憶がある」と振り返る。
大学進学で上京したころは、展覧会で山濤の作品を見るのが楽しみだった。「毎年、イメージが違う。そのときの書体に安住することなく、日々、他の誰とも違う新たな境地を開いていったように感じる」
五十二歳で魚津高校教諭を辞め、上京して書に専念してからも山濤は故郷を忘れることなく、月一回、週末に魚津市、朝日町で書道教室を開き続けた。
如山は「先生に書を習い始めたころ、先生の家の二階の座敷からは朝日岳、白馬岳など北アルプスが望め、海も見えた。あこがれ続けている先生の、力強く骨格がしっかりして遠近感がある字は、故郷の山、海がはぐくんだと感じている」と語った。
魚津市の新川文化ホールには山濤記念室が設置され、山濤が生前に寄付した作品の一部を常設展示している。 =敬称略
おおひら・さんとう 朝日町生まれ。1936年、県師範学校(現富山大人間発達科学部)卒。43年、富山商業学校(現富山商業高校)教諭。45年、富山大空襲で住居を焼失し、朝日町へ。47年、金子鴎亭と出会い、師事する。福光町(現南砺市)で疎開中の棟方志功に出会う。68年、魚津高教諭を辞し、上京。94年、紺綬褒章受章。2002年、文化功労者。
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絵のように書を表現 近代詩文書を隆盛させた書家 大平 山濤 1916~2007年 - 中日新聞
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